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※ こちらもイベント終了後なのですが掲載しまーす

<ナレーション>
水野健一郎の主成分は「フォーム=情報」である。フォームは数あるコミュニケーションから採掘され、物質性の衣をはぎ取られる。メディアから切り出されると同時に裸にされたフォームは、その固有の既視感を核として残存させながら、水野の脳内で再構築される。いや次の構築に必要なテクネのために、水野自信がアップデートされると言った方がより正確だろう。新たなフォームは作品ではなく、水野にヒットするからだ。物質から解き放たれ、既視感をエネルギーに変換したフォームにとって、メディアの越境はかくもたやすい。だからこそ水野は、メディア空間で縦横に行き来するダイナミズムを手中にできるのである。

 

<こども>
これって何のことだかサッパ分からないや。

<わたし>
「フォーム=情報」の情報というのは意味論的情報のことで、これはエイドス(形相)のことを言っているんだよ。水野くんはスケーラブル性を保ちながらフォームを展開させるんだけど、逆にいえばフォームとはそもそも「意味」のことだからスケールというものを持たない。だからスケーラブルに展開する自由をフォームに持たせたままにしておくというのは、スケールの奴隷としてフォームを縛りつける物質性(たとえばキャンバスや解像度)をフォームに与えないように、仮に与えたとしてもすぐ剥ぎ取るように展開させている、ということを言ってる。もともと見えないフォームは、時々水野くんによってライン(実線)のみの作品として出現するんだけど、それが「案」の形式だったり「サイン」の形式だったりするのが面白いんだよね。けして一カ所に定着させようとしない。そのおかげでフォームは、さまざまなメディア上で現れては消える動的(ダイナミック)な性格をもつことができる。フォームそのものに物質性がないからできるんだね。

 

<こども>
へえ、フォームってお化けみたいだね。

<わたし>
もう一つ、フォームはもともと見えないとさっき言ったけど、見えないというよりもこの世の中に存在しない。なぜならフォームはそれを解釈する観察者の水野くんの心の中にしか存在しないからなんだ。そう、フォームはベクターだからね。存在するには他者からの認知が前提となるから、そのためには物質性の衣をまとわなければならない。水野くんのフォームはこの衣を瞬間瞬間に着替えては脱ぎ捨てる、というより水野くんが黒子のようにフォームを着替えさせるというか、だからフォームは所々で明滅するように現れては消える。でもこれってフォームの原初的な在り方を水野くんが引き出した、あるいはメディアを選ばぬダイナミズムとスケーラブル性に変換させたというべきかも。このフォームの生き生きとした全体性が水野作品と呼べるんじゃないかな。

  

<こども>
み・ず・の・さくひん…?

<わたし>
次は既視感の話。冒頭には、数あるコミュニケーションから採掘と書いてある。ある要素は他のすべての背景から区別されることでぼくたちはゲシュタルトをつくり出すんだけど、切り出し元からの気配や影響が既視感となってこれがフォームに残る。この既視感がインセンティブとなり他者に観る気をおこさせたり、観たものの背景にある世界を他者の心に投影したりして、特定の感情移入を生んだりする。このことはデザインやイラストレーションのテクニックの一つでもあるし、特にイラストレーションはこれなしには機能しないと言っても良いわけで、その意味では水野作品はイラストレーションと呼ぶこともできる。そして水野くんの既視感の配合のセンスがこれまでにない未知のものとして認知されることで、こうしたデザイン分野でも先端的な存在、つまりオシャレな存在となるわけなんだ。

  

<こども>
水野さん、おしゃれなんだ。

<わたし>
ところでぼくは水野作品を絵一般として解釈したいと思ってるから、そういう視点でこれまでの状況を分析すると別の面が見えてくる。ビジュアルコミュニケーションの中から切り出した新しいフォームが、水野くん自身を内部から構成している情報にヒットする。当たり前だけど人間は情報でできているからね。水野くんはこれによって古い情報を組み替え、メタレベルの新しいつくり手となって次のフォームを生み出し、これに物質性(ヒューレー=メディア)をあたえ造形する。じつはこの過程は、水野くんの解釈が第三項となって第一項の前フォームから第二項の新しい解釈としてのフォームを生み出すことに等しい。おそらくこんな感じの環世界を水野くんは生きているんだと思う。可塑性の高いフォームが既視感を動力として、ダイナミックにメディア間を行き来する姿をありありとイメージできるよね。

   

<こども>
やっぱり分からないや、でも水野さんすごいねー。

<ナレーション>
ただし水野のこの営みは絵画的とはいえない。だからこそ絵画への対抗として機能することを、水野がどこまで自覚しているのか聞いてみたいものである。メディア選択の可能性を無数に感じさせる水野のフォームの、その動力となるのが既視感であるとして、フォームの在り方とともに既視感ももちろん固定されず、繰り返し変化しつづける。こうした解体と形成の反復の行程そのもの、つまりフォームの動的な在り方や既視感をチェンジし続けることが、水野のいう「超時空感」なのではないだろうか。ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ

つづく…
※ すでに終了したイベントですが遅まきながら掲載します


DM design: Shun Sasaki

都築潤ディレクション 「不安すぎるライン」
conix 管弘志 山本歩美 トキタシオン 林香苗武

2015/5/12(火)~05/17(日)
11:00~19:00(最終日18:00)
※ レセプション 05/12(火)18:00~20:00

絵をながめていて、いつも気になることが二つあります。一つは品性、もう一つはかたちです。必要不可欠な品性とかろうじて維持されたかたちの、関係上に引かれるのが「境界線=ライン」です。疑念によって引かれたラインが、手癖やトライブを越えるとき、作者たちのラディカルなスタイルがそこに現れます。(都築潤)

<出品者>


conix コニックス
千葉県出身。女の子を中心としたイラストで国内外より反響を呼ぶ。
conixx.tumblr.com


管弘志 Kan Hiroshi
1973年 大阪生まれ
1994年 創造社デザイン専門学校夜間部卒業
個展:1997年 HBギャラリー(東京)/2001年 ROCKET(東京)/2003年 ROCKET(東京)/2004年 Blink Gallery(ロンドン)/その他グループ展多数
VOL.7 HBファイルコンペ藤枝リュウジ賞/タンカレーマティーニパーフェクトアート2000常磐響賞/第112回 THEチョイス入選/第11回TIS公募入賞ほか
仕事:雑誌「モーターマガジン」/雑誌表紙「カーサブータス」/ホテルクラスカブックCDほか/CDジャケット/キリンジ「カメレオンガール」/リップスライム「黄昏サラウンド」
hirishikan207.blogspot.jp


山本歩美 Yamamoto Ayumi
1990年京都生まれ
京都造形芸術大学 イラストレーションコース卒業
ダサいを、ポップに!
受賞歴:第9回グラフィック 1_WALL 奨励賞受賞(居山浩二選)/第10回グラフィック 1_WALL ファイナリスト

 
トキタシオン Tokita Shion
1993年 山梨県生まれ
2014年 東京綜合写真専門学校卒業
受賞歴:2013年 第3回キヤノンフォトグラファーズセッション ファイナリスト(横木安良夫選)/2014年 第11回グラフィック「1_WALL」審査員奨励賞(都築潤選)/2015年 第12回グラフィック「1_WALL」審査員奨励賞(都築潤選)/第31回日産童話と絵本のグランプリ 佳作
グループ展:2014年 第3回キヤノンフォトグラファーズセッション ファイナリスト展(オープンギャラリー(品川)キヤノンSタワー)
art-shion.wix.com


林香苗武 Hayashi kanae Takeshi
1991年長野県生まれ。
2011年より平面表現における速度を主題とし、制作活動を続けている。 現在は速度主義を掲げ「"あらゆる摩擦や抵抗を無くした"機械を創造する」を理念とし、制作を行う。


都築潤 TSUZUKI JUN
1962年生まれ。武蔵野美術大学卒業。
イメージフォーラム中退。
日本グラフィック展、日本イラストレーション展、ザ・ チョイス年度賞、年鑑日本のイラストレーション、毎日広告賞、 TIAA、カンヌ国際広告祭、アジアパシフィック広告祭などで受賞。主な仕事に、TVドラマ「ギフト」「人にやさしく」などのタイトルマーク、日本IBM、ナイキジャパン、日本HP、SUBARU、日清紡、東海大学、東京都庁などの Webコンテンツ、クボタ、三井物産、大塚製薬などの新聞広告の他、ポスター、雑誌の広告イラスト、書籍のカバーイラストは多数におよぶ。2001年から「絵一般」についてのトークイベントを定期的に実施。美術出版社「日本イラストレーション史」執筆、監修。専門誌や Webでイラストレーションについての文章を多数執筆。Webコンテンツ制作ユニットfirelightとしても活動。京都造形芸術大学情報デザイン学科教授、多摩美術大学非常勤講師。東京工芸大学、創形美術学校、桑沢デザイン研究所、美学校でも授業を担当。近年開催の展覧会は、2010年個展「ニューエイドス」、2013年「都築潤×中ザワヒデキ」。
neweidos.cc
田中英樹は形態のイラストレーターであって、色彩のイラストレーターではない。だから田中のイラストレーションは「書かれる」のであって「描かれる」のではない。田中のイラストで使われる色は、生理的、快楽的な色彩ではなく、オプションとして取扱われる色であり色そのものに感情のほとばしりやゆらぎも一切ない。そこには記号や補足としての、あるいは判別機能としての色があるだけだ。赤や黄色や青という色がその絵の中で機能する姿は、まるで形態の後方で援護射撃をする軽支援火器のようだ。それは突撃する主体なしでは働かない。もちろん主体とは形態=形のことだ。



では形とは何を指すのか。そこに田中の鋭い一般性がスパークする。それは人でありビルであり、人間が認識できるあらゆる物体であり、そのアウトラインを記述すること、つまり「描く」のではなく「書く」ことこそが田中作品のエッセンスでなのだ。しかし記述された個々の形にこれといった独創性は見当たらない。賦与されるべき独創性の対象は個ではなく全体であって、田中のイラストレーターとしてのパーソナリティはこの「全体」から発せられる。



田中は図鑑のように個々の姿の典型を書いているだけであり、いわゆる味わい深い線を必要としない。そういったものは田中本人のパーソナリティとは無関係だからだ。それでも味わいらしきものを探りたければ、画面を俯瞰してその縦横に奏でられた線の集散を見渡すべきだろう。そこには全体を貫くリズムがある。



田中の絵にとって問題にすべき点は、その無数の要素ひとつひとつをコントロールしながら、ゲシュタルトの解体と再製をくり返すなかで生まれる全体であって、コントロールと同時にフィード・バックとフォアードをくり返し、おそらくは自動記述の領域へと踏み込んでいく。それぞれの要素はけっして壊れず、あくまでも個々の意味を保ちながら、数の増減と配置と余白によって構築される。だからこそ一般性を保ちながらも田中の画面はスパークするのだ。



田中はもともと「エナジー・ドーム」からスタートした。言わずと知れたDEVOのアイテムなのだが、80年代これを公共のいたる場所に記述し始める。日本では初期のグラフィティであり、サンプリングでもあった。そして田中が記述した記念すべき最初の「部分」だった。



なぜ田中はこのような作画にいたったのだろうか。思うに、イラストレーションの機能や汎用性を、田中は徹底的に考えたのではないだろうか。フリーランスのイラストレーターはその受注の仕組みを、ある一定の作画傾向・作風に依存している。この認知がなければおそらく仕事は発生しないだろう。ただし認知の範囲は大多数である必要はなく、むしろ大衆への高い認知はイラストレーターの寿命を縮めかねない。もちろん作家本人の知名度を上げ、絵を描く以外の領域へ活動の幅を広げる方法もあるし、これもまたイラストレーターのスタイルの一つともいえるが、こうなってはウザい。イラストレーターが絵を「描く」ことのみで稼ぐには、必要以上に認知されることはかえってよろしくない。そういう考え方がある。



またイラストレーションは「デザイン=計画」の中で機能する。このイニシアチブを同時に握ることもスタイルの一つとしてあるが、これにはディレクションやデザイン業務をともなってしまう。これも避けたい。あくまで受注の立場でいなければならないし、この立場が水平方向への自由度や余暇、そして複属を生む。そういう考え方も一方である。



ではイラストレーターがこの立場を守りながら、効率的に稼ぐにはどういう方法があるのだろう。これについてはあらためて考えたいが、ただしこの考察ぬきに田中のような作画法には至らないはずであり、こうした経緯や背景も含めなければ田中の作家性を見通すことはできない。そう考えると田中のふるまい全体が作品であり作家性であって、この作家性によって、ただの便利屋イラストレーターとのきわどい一線を引いている。しかもこの一線は外側からは見えない。イラストレーターという職種に精通しない限り、見分けがつかないようにできているのだ。じつはこの見分けのつかなさにポイントがある。



エナジー・ドームという「部分」から始まった田中の画面構成はもとより、そのふるまいまで含んだ「全体」が田中英樹という一個人を指す。と同時に、イラストレーターという職種の一形態を指している。最後に90年代初頭の作品2点を見てみよう。アクリル絵具で描かれたオムライスとパフェの描き割りだが、うって変わってこちらは「色彩」であり、そして確実に「描かれて」いる。いやそうではなく、絵の外側「全体」の空間から見れば、これらは「配置」されただけなのかも知れない。




  展覧会やるみたいだよ〜!
 「なんちゃってオーラ展」田中英樹 × 寉本真衣
  2014年9月1日(月)〜 9月14日(日) @kit gallery
発売中の「イラストレーション」で3人のクリエーターの皆さんにインタビューをしました。そちらの詳細はまた後日として、今回その中のおひとり師岡とおるさんについて新たに書いた文章を転載しまーす。



このポスターがけっこうウケている。ウケてはいるけど絵を描いたのが誰なのかは、とくに話題になっていない。「楳図かずおが描いたのかな?」って言われてもよさそうだけど、そうじゃないことくらいすぐ分かるのか言われていない。「実際の漫画のワンシーンなのかな?」という話にもならない。描き下しであることが分かるからか。「これってプロの仕事だろうか?」程度の話は出ているのかも知れない。「昭和っぽいなあ」「濃い〜」というのはあったが、出どころがどこなのか作者が誰なのかということは、話題にのぼらないようだ。



とにかく描き手のことはあまり気にされないらしいが、ポスターをしばらく見ていると気がつくことが多い。事件の直後そばにいたであろう人々それぞれの勝手な反応が描かれ、そこに内容らしい内容はないのだが、ふきだし、効果線、ハイコンといった漫画の形式のみがたたみ掛けられて、バン、バン、バンと三コマ連発でいさぎよく終わり、さいごに「みんなの勇気と声で痴漢撲滅」という標語がそらぞらしく響く。とてもその気があるようには思えない。こうした視覚コミュニケーションは、漫画やお笑いが円熟した日本のサブカル風土の中でしか成立しないかも知れない。そう感心すると同時に、漫画の形式だけを抜き出し凝結させる手法に気づかされる。ここにきて師岡とおるの仕事ではないかとの疑いをもつにいたった。



一般的にこれが誰の仕事なのか確かめようとすると、そうとうなエネルギーを使うことになるだろう。まずJR東日本に問い合わせ、あのポスターの描き手が誰なのか聞かねばならない。広報担当にまわされ、外注のデザイン制作会社の連絡先を聞き出し、そこに電話をして初めて知ることができるかも知れないが、でもそうまでして誰が描いたのか知ろうとする人は滅多にいない。いるとすれば熱心なイラストファンか、あるいは同業者ぐらいか。広告系デザイナーでさえ気にしない可能性が高い。しかしポスターに漂うある種の品性を通して、師岡のエスプリを察することはできる。



日本で漫画表現はあまりにも日常的だし、ポスターだけでなく、ほかのさまざまな媒体を席巻してから既に久しい。二次創作にもみんなが慣れている。これほどの漫画先進国だからこその人々の寛容さなのだろう。成熟したサブカル風土を前提にぎりぎり成り立つバランス感覚と客観性と作画技術があって、ようやく品性というものが絵から漂ってくる。そして何よりも大切なのは漫画にたいしてのリスペクトだと、本人も言っている。師岡とおるが到達したのはそういう場所なのだ。



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※本文の掲載サイトはこちらです
痴漢撲滅キャンペーンは6月からやってたんですね
公開最終審査ではほんとにカロリー消費しました。
グランプリの寺本愛さんおめでとうございます!
(柿木原さん写真おかりします)



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第9回グラフィック部門の1-WALL展が始まりました。5日には公開最終審査がおこなわれます。これほんとに面白いのでぜひ観にきてくださいませ。ということでラインナップは、江波戸李生勝正光寺本愛とんぼせんせい三山真寛横山かおるという面々であります。前回の顔ぶれもとてもユニークでした。一望して分野横断的になるその理由というのも、審査側としては嗜好の幅をできるだけ拡げ、グラフィックとは何かという問いに対し結果的に作画表現に一定の傾向がない出品群となることを暗に望んでいるからです。問題はそこじゃないんだよという強い示唆が、これには含まれているのかも知れません。

どんな作品でも良いのよ、平面ならね♡・・・じゃあその基準はどこに?

それが古くには「イラストレーション」ちょと昔は「アート」と呼ばれましたが、いつの間にか「ART」のうねりに飲み込まれ、その反動なのでしょうか「グラフィック」という呼称が再認識されて今はその中にあるようです。というよりこの一連の運動の中に基準らしきものが隠れているのです。そこには「グラフィックアート」とは呼べない不思議さがあり、一方でジャンルを無節操に横断したくはない自分もいて、こんなふうにけっこう整理はしてるけど人に伝えるのは至難の技というのが正直なところ。なるほどこれこそが、言語とはリファレンスの体系であるという何よりの証拠かも知れません。ついでに言うとちょっと昔の「アート」の時代はグラフィック展という看板が掲げられたにもかかわらず、選ばれた呼称は「アート」でした。



こうして毎回似たような課題が浮上します。前述のように作画表現を限定させまいとして応募作品各々に、分野別の嗜好にしばられずもしかし何か透徹した解釈を迫られ、最先端なんてものがない今これは愉快なことでもあるしそーゆう状況で下野薫子を発見できたことは喜びですが、この状況で今日言うところの「グラフィック」の、たとえば絵画やコミックやデザインやアニメーションなどの歴史とか時間とかがつくってきた文脈をある程度無視して、簡単に言うと分野の専門性を切り離したその外側で、尖端性や既視感を再設定しかつそれを裏切り続けなければならないという、このような課題がまたきつい。隠れてる基準をさがし物差しにするというのは、そういうことだと思います。だから今回の公開審査も参加者全員がそうとうにカロリーを消費する現場となるでしょう。とはいえ「複製」がキーであることに変わりはありませんけど。(敬称略)

とにかく百聞は一見にしかず!
展覧会、公開審査、トーク、PFレヴューをぜひ体験しにきてください。

【第9回グラフィック「1_WALL」展】
2013年9月2日(月)~ 9月26日(木)
11:00a.m.-7:00p.m. 日曜・祝日休館 入場無料

【公開最終審査】
9月5日(木)6:00p.m.-8:30p.m.
審査員:居山浩二 柿木原政広 菊地敦己 都築潤 長崎訓子
入場無料、要予約(TEL 03-5568-8818)
審査会はどなたでもご観覧いただけます。

【トークショー】 
「グラフィックのいま、これから」VOL.2
第8回グラフィック「1_WALL」会期中に開催したトークショーの続編です。
前回語り切れなかったことを語りつくします。
開催日時:9月12日(木)7:30p.m.-9:00p.m.
入場無料、要予約(TEL 03-5568-8818)*予約受付中

ゲスト:
菊地敦己(アートディレクター)
都築潤(イラストレーター、グラフィックデザイナー)
室賀清徳(『アイデア』編集長)

【ポートフォリオレビュー】
各界で活躍する方々をレビュアーにお迎えし、ポートフォリオレビューを開催します。参加者以外の方も見学できるオープンな場です。ぜひお出かけください。
開催日時:9月25日(水)7:10p.m.-9:00p.m.
入場無料、入退場自由、見学可

レビュアー:
大原大次郎(グラフィックデザイナー)
サイトウユウスケ(イラストレーター)
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