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母親と再開する二人の息子の絵を何となく描いてみた。仕事だから何となくという言い方は語弊があるけど、線の緩さというか気ままさがほんわかした雰囲気をつくり出すという意味で、何となくという印象がふさわしい。かといって画面のすべてを無意識に描き抜いたわけじゃなくて、ちょっと迷った上で配置したのが着物姿の女性だった。本来このシチュエーションだと女性は手を挙げてる男性二人の手前にいなければならないが、足下の接地点をみると、右のビジネスマンらしき男の真横にいることになっちゃうので、空間的にはどうしても違和感が出る。この違和感が不安を誘うから面白い。しかし男二人がひとりの女性と出会ったという、事態そのものに変わりはない。

ドローイングとはそもそも線を引くことだけど、絵で素早く説明するときはいちいち色を塗って描くよりも、線画の方が簡潔に見る人の記憶にも要点を刻んでくれる。こうした場合ペインティングよりもドローイングの方が合理的なのだ。たった10秒で説明しろと言われたとき、悠長に色を塗ることはない。色という物質的な要素はかえって情報伝達の邪魔になるし、色を塗るという行為は多種多様な選択を伴うものでそれなりに時間を必要とするからだろう。

イラストレーションという言葉には「説明」の意味が強く含まれる。だから線画こそイラスト本来の姿だと言うこともできる。事実そう考えるイラストレーターは多いし間違ってはないが、ただそれだけをイラストレーションとすることには無理がある。まあ、それはそれとして、ウィリアム・ブレイクが彩飾写本の細密画から継承しようとした精神は、線画こそが物事の「本質」を力強く表現する技法であり、この本質を人から人へ伝播させるための最良の手段だと確信したからだろう。この精神はラファエル前派に受け継がれた。

現象はうつろう。本質とはその時々の観察によって色で表現する現象のようなものではない。思ったことを素早く記述するのが本質だ。タイマーで時間をはかって短時間で繰り返しおこなうクロッキーは、こうした感覚をやしなうドローイングの訓練だが、それは一枚に時間をかけるような緻密な観察に比重をおかない。「描きなれる」ことを要求する。本質=線=形とはそういう性格のものだ。

たとえばデジタルグラフィックの世界では、アドビのイラストレーターというアプリケーションソフトがこのドローイングの役目を担っている。イラストレーターにはアートワーク(今はアウトラインと呼ばれてるらしい)という、描き手が思ったことをのぞき見られる機能があり、このアートワークによって、色を塗り重ねた絵でもスケルトンのように形を透かして見ることができちゃうのだ。これがイデアであり考えたことの本質だ。アイデアともいう。
 

新しいPCが届いてからまだグラフィックのアプリケーションを入れてないのでスキャニングができない。そういうわけもあってデザインされた作品データのアップもできないので、何となく最近描いた絵を上げました。左側は仕事で使った絵、従来ならこれがイラストレーションの原画ということになります。右側はただ描いた絵、別にイラストレーションとして使用したものではありません。通常そんなことにこだわる必要は全然ないんです、がしかし…ということでネタになる画像もないので、去年書いた美手帖の特集についてのエクスキューズを少々。

いただいた感想の中で多かったもののひとつは「美術の絵画作品とイラストレーションの違いが分かりました」というものだったんだけど、けっこうこうした気楽な反応こそ自分が心配していたものでしたw 少し詳しく説明すると、あの特集では美術作品とイラストレーションを比較してその違いを述べたつもりは全くなくて、美術作品とイラストレーションを比較するということ自体が虚構だ、と書いたんです。なぜかというとイラストレーションとはあえて言えば印刷物のことであって、絵の性質や傾向を指すのではなくて絵のおかれた状態、状況を指す言葉だからです。だから比較精度を上げて比べるなら、ルーブル美術館に行ってモナリザの横にモナリザが印刷された複製物を掛けて並べて比べる、そういうことになると思います。でも美術作品とイラストを比べることって、まさかこんなふうにモナリザとモナリザを比べることを想定してませんもんね。

双方を比較すると言った時は多分こういう状況を想定してのことだと思います。例えば美術の絵画作品と言われてるそれらしい絵といわゆるイラストの原画を比べて、ふつう芸術的だから美術、説明的だからイラスト、なのにこの絵は美術と言ってるくせに何か説明的だし世俗的だからホントはイラストなんじゃない?とか、このイラストレーションはちょっとワイルドな塗り方で抽象的でチンプンカンプンだから美術じゃない?という比べ方です。こういう比較がナンセンスであって、比較の意味をなさない虚構だということを書いたんです。

ホントは原画をただ印刷して複製した状態をイラストレーションと言うかというと、それだけでは不充分だと思ってます。マスであることが必須だというのが持論です。そしてグラフィックデザインの要素となって初めてそう呼ばれるのがふさわしいと、ぼくは考えてます。しかし原画を複製した版画は18世紀のフランスでは一枚であってもイリュストラシオンと呼ばれていました。イリュストラシオンはフランスの絵新聞のタイトルとしても有名です。19世紀にミュシャも表紙を描いてたやつで、どちらかといえばこっちがマスでしょうね。

発注されようがされなかろうが、説明的であろうがなかろうが、「伝える機能」が内蔵されていようがなかろうが、とにかくイラストレーションとは印刷物、正確には印刷物の図版、ここで一旦切る。これが基本だと考えてます。
 

※ギャラリートークはおかげさまで無事終了しました

お知らせです。すでにガーディアン・ガーデンで開催されているケッソクヒデキさんの個展でギャラリートークをやります。テーマはちゃんと決まってませんが、「絵」と「イラストレーション」と「イラストレーター」の話を、丁寧に区別してお話できればと思ってます。ついでに美術手帖の特集についてのエクスキューズも交えてできたら面白いかなあと…。

ケッソクさんは以前、巨大なビジネスマンがビルを破壊する「ストレスの発露」という絵を描いて注目を集めました。この絵にはビルの麓に群衆が描かれていていつもと変わらぬ朝の出勤に勤しんでおり、このような一大事が起こっているにも関わらず人々の無関心なその態度にぞっとしました。以下はその時の作品と勝手に寄せた私のコメントです。



「レイオフされたやり場のない怒りを絵に昇華させるとともに、時勢を表現したという点でイラストレーションとして評価できる作品です。一見主役である巨大なビジネスマンよりもビルのコンクリートの質感に思い入れを感じるところが、会社への拭いきれない愛着を想起させ、巨人はあくまでも憤怒の具現化にすぎず、無関心な人混みの中でこちらを見ているサングラスの男こそ作者であることが容易に推測できます。」

また彼はJR東日本のポスターで上越新幹線のイラストレーションも描いています。反射光をおさえた陰が良い意味で不吉な感覚を見る者に与え、とても印象的なシリーズに仕上がっていました。このような感覚はミステリーの装丁に大変良く馴染みますが、ただセンスまかせに突っ走っているわけではないと思います。展覧会のタイトル「Gradation」には、絵を通してその印象をすり込むような作者のテクニカルな主張が込められている気がしてなりません。良い意味で不吉…自分で書いていて責任をとるのが怖くなってきました。



ケッソクヒデキ×都築潤 詳細
入場無料 要予約(03-5568-8818)

場所:ガーディアン・ガーデン 地図
日時:1月22日(金)19:00~20:30


70年代なかば映画のチラシ集めがブームとなり、映画館に潜り込んでは映画を見ずにチラシだけをくすねてくる男子中学生が多数現れて、いいかげん困った現象だとニュースでも取り上げられたりしたことがあります。ぼくもそんなチラシ少年の一人でした…と何もノスタルジックに語るほどのことでもないんですが、そういう映画関係のポスターやチラシといった媒体で、アメリカのイラストレーションや人為着色に魅了されました。

同じころ講談社フェーマススクールズの通信教育の教材で紹介されていた、ボブ・ピーク、ベン・シャーン、ノーマン・ロックウェル、フランクリン・マクマホン、ドン・キングマンといったアメリカのイラストレーターの名前を知って興味を持ち、ソール・バスやモーリス・ビンダーというタイトルバックのデザイナーもついでに知って行くうちに、何となくグラフィックデザインにも興味を持ったりして、そういう印刷物のファンになったわけです。絵は描いてましたが、描くことはそれほど好きではなく見たり集めたりする方が10倍好きというか、まあマニアとはそういうもんだと思います。その前に知っていた日本のイラストレーターといえば、星新一の装丁をやっていた真鍋博と和田誠だけだったかも知れません。

で、その後日暮修一や灘本唯人のイラストを切り抜いて「ノストラダムスの大予言」のノストラダムスと一緒に部屋の壁に貼り、なんとなくあごに手を当てながらフムフムとか言って満足してたんですが、そのうちにこれらは本物の絵じゃないけど面白いなあと時々思うようになります。今考えればデザインからイラストレーションを切り離して飾ってたんですね。日暮修一はポール・モーリア、灘本唯人は女性の横顔、それとノストラダムスです。ふと思い出して定期購読していた映画雑誌「ロードショー」を拾って、スターの似顔絵コーナーに投稿されたとってもうまい素人の似顔絵と比べると、ロードショーの方にはうまいんだけどぼんやりと素人を感じ、逆に壁に貼ったポール・モーリアと女性の横顔には素人の感じがありませんでした。ノストラダムスだけよく分かりませんでした。

しばらくしてこの似顔絵コーナーに自分も投稿します。最初はピーター・フォークの顔をアップで描きました。コロンボが好きだったので、ボロのコートを着て葉巻を持った手を額にあて「チリね、うんと辛くして」と言っているシーンを描いたんですが、アップなのでコートは袖の部分しか画面に入っておらず、その部分だけでボロの感じが出るよう工夫しました。その作品が落ちたので、次の号に刑事コジャックのテリー・サバラスを描いて出しました。コロンボのときにコートの袖を必要以上に描き込んでしまった反省から、今度は描き過ぎないようにしたのですが、コジャック自体まったく好きではなかったため、イマイチな感じは送る前からしてました。今思えばこれが最初のコンペティションの経験です。

イラストファンとしての原体験を前置きで書こうと思ってたら、めちゃくちゃ長くてしかも不可解な話になっちゃいました。というかぜんぜん原体験じゃないような気もしますけど。切り抜いたり壁に貼ったりできるようなこんな出会い方も、イラストレーションがマスメディアだからこそですね。とにかく「日本イラストレーション史」という特集を組んだ美術手帖がただ今発売中です。お話をいただいた時はあまりにも無謀な企画で冗談かと思ってたら、半月ほどして言い出しっぺの福井真一さんから冗談ではありませんと言われ血の気が引きましたが、僭越ながら監修と執筆をなんとか遂行できました。資料性の高さは保証しますので、カルチュラル・スタディーズのお供にぜひお買い求めくださいー。

美術手帖のサイトはこちら


近作のデータを失ってからブログの更新も滞ってましたけど、その間こんな仕事をしたのでアップします。メトロミニッツって結構メジャーなフリーペーパーなんですね。東京メトロの駅に置かれてるのだからそれもそのはずなんですが、今やフリーペーパーも駅構内の風景にとけ込んじゃってなかなか目立ちません。でもそうも言っちゃいられない。ポスターが一方的に見せるための媒体なら、フリーペーパーは見る側が情報を欲しいと思って取りにいく。つまり能動的になれる要素はこちらの方が高いわけで、考えてみればインタラクティブ性の高い紙メディアだということになります。かつラックの設置を工夫すれば整然と並んだその表紙はB倍ポスター以上の迫力を出すと考えると、これは印刷メディアだけど立体化、オブジェ化する場合もありうる。う〜んなかなか奥深い、と思って配布日に新宿駅に行ったらもう一冊もありませんでした。この絵が並んだ壮観な出で立ちを写メしようと思ってたのに…。でも楽しく描けたので制作上はいっさい問題ありませんでした。



ポスターの立体化、言い換えれば広告が印刷図版から多媒体化を遂げた出来事が80年代に突如起こります…というのは言い過ぎかな。でも当時の印象はまさにそういう衝撃でした。こんなエピソードを含むイラストレーションの特集を組んだ美術手帖が、もうすぐ発売されます。後日ブログにも情報をアップしますが、たぶんこれまでにない資料性の高さとなるはず。ぜひお求めを。
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